犬伏左近について

赤沢宋伝の家臣

赤沢宋伝(あかざわそうでん)は三好氏の家臣で、戦国時代から安土桃山時代の武将です。徳島県板野郡板野町にあった、板西城(ばんざいじょう)の城主です。犬伏左近は赤沢宋伝の家臣で「赤沢十二人衆」の一人といわれ、板西城の出城である犬伏城の城主が犬伏左近です。

赤沢宋伝は小笠原氏の庶家で、小笠原家とは大阪河内に根拠地を置いた河内源氏で、清和源氏の流れをくみます。庶家(しょけ)とは一族といった意味合いです。

板野町の伝説

阿波学会研究紀要 郷土研究発表会紀要第34号 板野町の伝説 史学班 湯浅安夫

振袖地蔵
犬伏の撫養街道にそって南向きに地蔵堂が建っている。そこに「振袖地蔵」「カヨ地蔵」と呼ばれる美しい丸顔の地蔵がおさめられている。その名のおこりは、天正10年(1583)四国制覇をめざした土佐の長曽我部元親が2万2千の兵を率いて、中富川をはさんで勝瑞城の十川氏と対戦、板西城主の赤沢信濃守も一族、郎党を従えて元親の大軍と戦ったが、戦い利あらず討死、留守を守っていた奥方は逃げることの不能を悟り、姫をにがして自分は「松の木」という所で自害、姫は犬伏の諏訪神社近くで捕えられ殺害された。土地の人は姫をかわいそうに思い、地蔵を建ててその霊を弔った。姫の名を「カヨ」といったので「カヨ地蔵」、その時振袖を着ていたので「振袖地蔵」ともいう。
地蔵の建立は、享保7年(1723)とあるからずっと後世に建てられたものである。 (近藤滋樹氏)

赤沢信濃守は赤沢宋伝の別名です。

蓮花庵の十一面観音の十一面観音
犬伏の北の山地に入った所に不動明王が立っている。そこから4番札所大日寺に通ずる山辺にかつての遍路道がある。その道にかかった所に蓮花庵がある。白鳳時代建立の金龍山蓮花寺で、昔の面影はないが、蓮花池のほとりに堂がある。
この寺は、天正10年の長曽我部阿波攻略の時の兵火で焼失した。その時、住職が本尊の十一面観音を裏山にかくしたままになっていた。所がこの地の素封家の先祖忠平に夢告があり、ご本尊が発掘されたのを、堂宇を建立しておさめたとのことである。この十一面観音は霊験あらたかで、月の17日には、近在から信者が集まって、病気平癒、交通安全、商売繁昌などいろいろな祈願をするそうである。 (近藤滋樹氏)

岡の上神所
犬伏に岡上神社があるが、この社は延喜式の小社で倉(うかの)稲魂(みたま)命をまつってある。寿永の昔、源義経が屋島の平氏を討たんとした道中、当社に武運を祈願したと伝えられている。また、応仁の乱の最中、毎日の様に降り続く雨で稲が腐りかけてきた、困った村人は、五穀の祖神といわれる岡上大明神に祈願した。すると不思議に雨がカラリと晴れて、久し振りの青空に村人は歓声をあげた。その秋は五穀実り恐しい飢餓から免れたという言い伝えもある。
藩主蜂須賀氏の崇敬も厚く、毎年初穂米5石の奉納があったとの事である。大正3年、参道の石垣を改修しようとした時、曲玉管玉水晶玉、藍色珠数などが出土したそうである。
境内に樟の大樹があり、「御神鏡」といわれ樹令がどの位かわからない程の巨木である。
また、石段の竹林の中に、のぼり窯の跡があり古代瓦が焼かれた所かも知れないとのことである。 (阿讃峠みち)

岡の上神社にはクスノキの大樹があると書かれてますね。天然記念物だそうです。ウカノミタマはお稲荷さんのことで、オオゲツヒメと同神とされている(こともある)そうです。

岡の宮の古椀
岡上神社から100米ばかり南に、古くから「岡宮の塚穴」として知られていた古墳があった。この古墳は、昔、この地方の人々が婚礼や法事のため沢山の食器を必要とした時、入用の食器の種類と数をお願いすると、約束の時間に全部整えられていた。時には銭まで準備してくれることもあったので土地の人々は大変重宝で感謝していた。ところがある時、村の一人が借りたのを返さなかったので、その後はもう村人の願いをきいてくれないようになったと伝えられている。
古墳から祭祠用の須恵器類が多量出土したこともあって、こうした伝説が生れたのであろうといわれている。
今はすっかり塚穴はとり払われて跡をとどめないが、この上に家を建てると凶事があるとかで、この一区画だけ取り残されている。 (阿讃峠みち)

以上、板野の伝説の犬伏地区関連の項目です。引用ばかりになってしまいました。犬伏左近について調べるつもりが、少し横道にそれたようです。犬伏左近についてはあまり情報がありませんでした。まあ、目的があって調べたわけではないので次回に持ち越します。次回があればですが。

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