伊予の二名の島からは

伊予の二名の島

淡路島が農耕に適してない土地だと痛感した天神族は次の領地獲得へと動きます。次の目的の地は、渦潮巻く海峡の向こう側に見える大きな島です。

この島は身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。かれ伊予の国を愛比売(えひめ)といひ、讃岐の国を飯依比古(いいよりひこ)といひ、粟の国を、大宜都比売(おおげつひめ)といひ、土佐の国は建依別(たけよりわけ)といふ。

  • 伊予の国 愛比売(えひめ)
  • 讃岐の国 飯依比古(いいよりひこ)
  • 粟の国 大宜都比売(おおげつひめ)
  • 土佐の国 建依別(たけよりわけ)

鳴門海峡を渡った天神族は、讃岐山脈を北に上るか、南に下るかで迷ったと思います。南に下れば吉野川という大河と広大な中州があります。後に粟の国といわれる豊穣な土地です。徳島県は現在でも、大阪の台所といわれるくらい農産物の大生産地なのです。では、北に行くとどうでしょう。

県土面積が全国で最も小さい香川県には、1万4600余の溜池がひしめくように分布している。数の上では兵庫県の4万3200カ所、広島県の2万200カ所に次いで全国第3位であるが、溜池密度では全国一である。これは香川県が雨の少ない瀬戸内海に面している上に、平野率が高く山が浅いことが原因している。香川県では昔から、「讃岐には河原はあっても河はない」と言われてきた。山が浅い上に平野が急傾斜であるために、降った雨は一時に海へ流出してしまい、河川は表流水のない河原になって、河川利水ができなくなる。このために溜池の異常な発達をもたらしたのである。

讃岐の溜池の発達史と保全対策

この文章を読むと、淡路島と大差無いことがわかります。溜池の整備は古代の早い時期から行なわれたそうです。そうであっても干害工事を大規模にやるにはそれなりの人員と時間が必要です。そして、工事に携わる多くの人々も「飯」を食べなければなりません。この「飯」は何処から来たかといえば粟の国です。

讃岐に向かった天神族はその地を見て、農耕には適さない事を悟ります。天神族は粟の国を調査に向かいます。そして農耕のために造成されたような豊穣な平野を目にします。吉野川という大河が流れており、水の心配も全くありません。天神族は讃岐の国から粟の国に移り住み、農耕を始めます。そして、その恵みとともに粟の国での繁栄を極めていくのです。

粟の国で成功を収めた天神族は、以前農耕に適さないと諦めた讃岐の国の開拓に取り掛かります。人員を送り、食料のバックアップをして開拓を勧めます。溜池をつくり、水の確保さえすればなんとかなる土地だからです。こうして讃岐の国は溜池により農業生産のできる国として成り立ちます。開拓のため、男子の入植させ、粟の国より「飯」を援助してもらったこと。これで飯依比古(いいよりひこ)・・・どうですか?うまくいった。

土佐の国は遠くて狭い国みたいな意味でしょう。たぶん地元の勢力があって、天神族は軍隊を送って鎮圧し、軍隊を常駐させて収めたのではないかと思います。で、軍隊の支所があったところなので、建依別(たけよりわけ)というわけです。

問題は伊予の国ですね

現在の徳島県は愛媛県と接してはいるものの、互いの県庁所在地は四国の東と西の端に別れています。徳島県はどちらかというと、関西圏です。愛媛県は瀬戸内と九州との結びつきが強いと思われます。天神族は伊予の国まで進出し、治めました。伊予の国にはそれなりに高い位の神様がいらっしゃったのでしょう。いつしか伊予の国単体で力をつけ始め、粟の国と並び立つくらいの勢力になったのではないでしょうか。

2つの大きな勢力が成長してきた四国ですが、その2つの勢力が交戦するには互いの距離があまりにも大きすぎます。一つの国でありながら2つの巨大勢力の拮抗する国として「二名の島」とされたのではないかと思います。・・・完全に創造の産物ですが、現在の私の限界です。

予の国と伊の国

伊予の国は予の国、粟の国は伊の国とする説もあります。愛媛県と香川県を結ぶ鉄道がありますが、これは予算線と言います。愛媛件のなかでも、地域を区切る言葉として、東予、南予と言ったりします。これから考えても愛媛県は予の国でしょう。それでは、徳島県が伊の国であるという証明は、徳島県の西の端に猪の鼻峠というのがあります。当地が伊の国の端であると思えなくもないです。・・・と、これはたぶん大杉博さんの本の受け売りかも(違うかな?)

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