旧唐書 巻199上 列伝第149上 東夷1

魏志倭人伝

邪馬台国論争は停滞していますが、邪馬台国の位置を特定するのに引用されるのは、魏志倭人伝というのがもっぱら用いられています。

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。

魏志倭人伝(2018年10月19日 (日)14:46 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』

魏志倭人伝以外にも、邪馬台国(?)についての記述のある、中国の歴史書があるのですが、日本の学界では偽書扱いになっています。それは「旧唐書」というものです。今回からしばらく、「旧唐書」について調べてみたいと思います。

『旧唐書』(くとうじょ)は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫、張昭遠、王伸らによって編纂された歴史書。二十四史の1つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。

当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。

完成と奏上は945年(開運2年)6月だが、その翌年には後晋が滅びてしまうため、編纂責任者が途中で交代するなど1人の人物に2つの伝を立ててしまったり、初唐に情報量が偏り、晩唐は記述が薄いなど編修に多くの問題があった。そのために後世の評判は悪く、北宋時代に『新唐書』が再編纂されることになった。しかし、逆に生の資料をそのまま書き写したりしているため、資料的価値は『新唐書』よりも高いと言われる。

旧唐書(2018年10月19日 (日)14:46 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』

  

原文 卷一百九十九上 列傳第一百四十九上 東夷

倭國

倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。依山島而居,東西五月行,南北三月行,世與中國通。其國,居無城郭,以木爲柵,以草爲屋。四面小島五十余國,皆附屬焉。其王姓阿每氏,置一大率,檢察諸國,皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者,匍匐而前。地多女少男。頗有文字,俗敬佛法。並皆跣足,以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽,百姓皆椎髻,無冠帶。婦人衣純色裙,長腰襦,束發於後,佩銀花,長八寸,左右各數枝,以明貴賤等級。衣服之制,頗類新羅。

貞觀五年,遣使獻方物。太宗矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。

日本

日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。

長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者,猶中國戶部尚書,冠進德冠,其頂爲花,分而四散,身服紫袍,以帛爲腰帶。真人好讀經史,解屬文,容止溫雅。則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。

開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮。題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名爲朝衡,仕曆左補闕、儀王友。衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。天寶十二年,又遣使貢。上元中,擢衡爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。開成四年,又遣使朝貢。

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倭國

日本の國者、古い日本の奴隷の國。京の師に1萬を4行きます千里、新しい羅の東の南の海の中で。山の島に従って與の中で、東の西5月の行、南北3月の行、世國通に位置します。その國、木の爲の柵、で草の爲の家で無の城郭、に位置します。四方の小さい島の50余り國、全てどうして屬を付け加えます。その王は阿毎の氏といって、大体1置いて、檢は諸の國をこまかに調べて、全て恐れて付け加えました。設の官は12などがあります。その訴の訟者、匍匐します前。地の多い女性は少なく男性だ。頗は文字があって、俗っぽく仏法(の力)をすすめます。並は全てはだしだ布がそれをおおう前に後で。貴人は錦の帽子、庶民全ておだんご、無の冠の帶をつけます。婦人の衣服の純の色のスカート、長の腰の短い上着、發の於後をくくって、銀を下げるのが派手で、長の8寸、各數の枝を左右して、明るい貴の賤などの級で。服の制、頗の類の新しい羅。

貞観5年、1つの物を捧げるの派遣します。とても祖先の矛の柄のその道が遠くて、詔所の司は1歳の貢をさせるのがなくて、又遣新州の州長官は高は仁を表してなでるのへ祭を持ちます。仁を表してやっと平安で遠いのがなくて、王子と運命また(まだ)に向って贈り物、宣を争いません。22年着いて、また新しい羅奉を付け加えて表して、日常生活を通す。

日本国

日本の國者、日本の國の別の種。その國でだから日本の爲名で日の邊、にあります。あるいは言います:日本の國は惡のその名から上品ではなくて、爲の日本を直します。あるいは雲:日本の舊の小さい國、併の日本の國の地。その人は者に向って入って、多く自慢する大、いいえ實の對で、だからの中で國はどうして疑います。また雲:その國界の東の南西の北の各數の千里、西界、南界は全て海に着いて、東界、北界は山の外で、つまり毛深い人の國を制限する大山の爲があります。

長安3年、その大臣は臣の真人に向って貢と方物に来ます。臣真人者に向って、まるで中国の戸部尚書、冠はドイツの冠、その頂に入りますか?派手で、分けて四方に散らばって、からだは絹織物で紫の長衣、に従いますか?ベルト。真人は史に経典を読んで勉強することができて、解は文に属して、容貌とふるまいが温和で上品です。日の宴会の麒麟の独殿で、授司のご飯の卿、置いて本国を返します。

開元の初め、またへを派遣して、学者にを授けてもらうためです。詔の4つの助手の趙玄黙は鴻臚寺について教えました。でたらめなことを失って広い布に黙るですか?修理する贈り物をくくります。雲「白亀の元年の調子の布」を書きます。人もそれが偽りであることを疑います。所得のすずはまた(まだ)、尽市の書籍、汎海を賜います。それがどうしても臣に向って仲いっぱいで、中国の風を慕って、残していけないため、名前を直しますか?はかりに向って、仕は左を経過して過ち、計の王の友達を補います。はかり留首都の50年、良い書籍、放帰郷、滞在していけません。天宝の12年、また貢派遣します。上元の中で、はかりを抜き出しますか?左散は乗って常に南の都護を仕えて、抑えます。貞操の元の20年、へを派遣して、留学生のミカンは勢い、学問の僧の空いている海を免れます。元と元年、日本国は補佐役人の高位の真人の上で言います:「先行詞の学生、芸業は少しなって、本国に帰りを望んで、臣と同じところに行きついてください。」のから。4年開いて、また朝貢派遣します。

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自動翻訳ってほんとに面白いですね。原文の方が理解しやすく感じる部分もあります。

貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。

貞操の元の20年、へを派遣して、留学生のミカンは勢い、学問の僧の空いている海を免れます。

空海様も「空いている海」と訳されます。人名なので当たり前ですが。

それでは、次回よりぼちぼち訳していきたいと思います。

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