旧唐書 巻199上 列伝第149上 東夷3

原文

日本

日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本爲名。或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。或云:日本舊小國,併倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。

長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者,猶中國戶部尚書,冠進德冠,其頂爲花,分而四散,身服紫袍,以帛爲腰帶。真人好讀經史,解屬文,容止溫雅。則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。

開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮。題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名爲朝衡,仕曆左補闕、儀王友。衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。天寶十二年,又遣使貢。上元中,擢衡爲左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。開成四年,又遣使朝貢。

翻訳

日本

 

日本國者,倭國之別種也。

日本国は倭国とは別の国である。

日本という国と倭国という国が並立していたわけです。

 

以其國在日邊,故以日本爲名。

その国は太陽がある方向にあるので日本という国名をつけている。

倭国より東にあるということなのでしょうか?

 

或曰:倭國自惡其名不雅,改爲日本。

あるいは、倭国はその国名が雅では無いとの理由で国名を日本に変更した。

この場合は倭国=日本国となります。倭とは中国がつけた蛮族で卑しい意味をもつ文字。

 

或云:日本舊小國,併倭國之地。

また伝え聞くところによると、古くは日本は小国であったが、倭国を併合したとも聞く。

やはり別々の国で、日本国が倭国を併合したとも伝え聞くということ。

 

其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。

日本人は入朝しても尊大で誠意が感じられないので中国では疑ってかかっている。

つまり本音を言わず、皇帝に対して過度にはへりくだらない。だから日本人は信用できない。

 

又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山爲限,山外即毛人之國。

日本人が言うには、日本国は東西南北に数千里の広さがあり、西と南の端は大海に面しており、東と北の端は大きな山に接している。山の向こうは毛人の国である。

西南が大海というのは瀬戸内海のこと、もしくは太平洋のことなのか?東北は大きな山に接しているという。飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈あたりだろうか?毛人とは蝦夷のこと。

蝦夷(えみし、えびす、えぞ)は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)などに住む人々の呼称である。

中央政権の地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の先住民族で、アイヌ語を母語とするアイヌを指す。

大きく、「エミシ、エビス(愛瀰詩、毛人、蝦夷)」と「エゾ(蝦夷)」という2つの呼称に大別される。

蝦夷 Wikipedia 2018年11月3日

 

間(ま)

 

長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。

長安3年(703年)に、日本国の大臣、朝臣真人(栗田真人・あわたのまひと)が貢物を持ち入朝した。

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。

 

猶中國戶部尚書,冠進德冠,其頂爲花,分而四散,身服紫袍,以帛爲腰帶。

真人の身分は中国の戶部尚書にあたる。彼は進德冠をかむり、その頂は花のように4つに分かれている。紫の衣に身を包み、絹の腰帯をつけていた。

戶部尚書は古代の官職、民部卿の別称とあります。進德冠はかんむりのこと。詳細は良くわかりません。紫は有名な冠位十二階では濃い紫が一位、薄い紫が二位なので、位は高いようです。なお、冠位十二階は684年で終了しています。

 

真人好讀經史,解屬文,容止溫雅。

真人は経書と史書を読むのを好み、良く理解した。立ち居振る舞いは優雅であった。

読書家で立ち居振る舞いが優雅ということ。

 

則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。

則天武后は麟德殿の宴に真人を招き、司膳卿の官を授け、帰国させた。

則天武后の歓待を受け帰国したということ。

 

間(ま)

 

開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。

開元の始めの頃、また来朝者があった。儒士に経を授けて欲しいとのことだ。

経典を求めて来朝したわけですね。儒士は儒学のマスターでしょう。

 

詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。

四門助教の趙玄默を招いて鴻臚寺でこれを教えた。

四門助教というのは役職のようです。趙玄默は人名。わからん。

 

乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮。

この者は趙玄默に教授の謝礼として幅広の布を贈った。

儒学教授の礼として幅の広い布を贈ったということです。布に価値があるのかな?

 

題云「白龜元年調布」。

布には「白亀元年の調布(税として収めた布)」と書かれていた。

調は租税の一種。調布は税として納めた布という意味ですが、転じて粗末な衣服という意もあるようです。

 

人亦疑其偽。

人はみな、これを疑った。

偽物だろうと踏んだわけです。

 

所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。

この者は贈り物などもすべて売り払い、その金で書籍を購入して、海を渡って帰っていった。

有り金残らず、貰った物まで金に変えて、本を買って帰ったということです。日本人らしい行動ですね。

 

其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名爲朝衡,仕曆左補闕、儀王友。

その者の副官である朝臣仲滿(阿倍仲麻呂)は中国の風土を慕い、日本に帰らず中国に留まった。名を朝衡と改め、左補闕として仕えた。儀王のご学友となった。

副官の阿倍仲麻呂は中国が気に入って帰りませんでした。左補闕という役職をいただき、儀王のご学友として暮らしたそうです。

 

衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。

仲麻呂の京師滞在は50年にも及び、読書好きであった。職を解いて帰国させようとしたが、帰ることはなかった。

仲麻呂は50年も中国で暮らしました。読書好きだったようです。仕事をやめ、帰国するように促したが、帰らなかったそうです。

 

天寶十二年,又遣使貢。

天宝12年、日本国は再び使者を使わした。

753年に再度朝貢があったということ。

 

上元中,擢衡爲左散騎常侍、鎮南都護。

上元年間に朝衡を左散騎常侍、鎮南都護に抜擢した。

年間だから760~762のうちです。仲麻呂を左散騎常侍、鎮南都護に抜粋したということ。

 

貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。

貞元20年にも日本国は朝貢してきた。留学生の橘逸勢と学問僧の空海である。

804年に橘逸勢と空海が朝貢したということ。

 

元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。

元和元年に日本国使判官の高階真人が「前回の学生たちは学習も無事終えたので私と共に帰国させたい。」と願い出たのでそのとおりにさせた。

806年に日本国使判官の高階真人が就学を終えた橘逸勢と空海を連れ帰りたいと申し出て、少々されたということ。

 

開成四年,又遣使朝貢。

開成4年、日本国は再び使者を使わした。

839年に再度朝貢があったということ。

 

まとめ

日本国

日本国は倭国とは別の国である。倭国よりも東にあるので日本という国名をつけている。もしくは、倭国という名前を嫌い国名を日本に変更したとも聞く。別の伝聞では、古くは日本は小国であったが、倭国を併合したとも言う。日本人は朝貢しても本音を言わず、皇帝に対して過度にはへりくだらない。だから日本人は信用できない。日本人が言うには、日本国は東西南北に数千里の広さがあり、西と南の端は大海に面しており、東と北の端は大きな山に接している。山の向こうは毛人(蝦夷)の国であると言う。

長安3年(703)、日本国の大臣、朝臣真人(栗田真人・あわたのまひと)が貢物を持ち朝貢した。真人の身分は中国の戶部尚書にあたる。彼は進德冠をかむり、その頂は花のように4つに分かれている。紫の衣に身を包み、絹の腰帯をつけていた。真人は経書と史書を読むのを好み、良く理解した。その立ち居振る舞いは優雅であった。則天武后は麟德殿の宴に真人を招き、司膳卿の官を授け、帰国させた。

開元の始めの頃(713~741)、また朝貢があった。儒士に経を授けて欲しいとのことだ。そこで皇帝は、四門助教の趙玄默を招いて鴻臚寺でこれを教えた。この者は趙玄默に教授の謝礼として幅広の布を贈った。その布には「白亀元年の調布(税として収めた布)」と書かれていたが、人はみな、これを疑った。この者は贈り物などもすべて売り払い、その金で書籍を購入して、海を渡って帰っていった。だが、その者の副官である朝臣仲滿(阿倍仲麻呂)は中国の風土を慕い、日本に帰らず中国に留まった。名を朝衡と改め、左補闕として仕えた。儀王のご学友となった。仲麻呂の京師滞在は50年にも及んだ。彼は読書好きであった。その後、職を解いて帰国させようとしたが、彼は帰国することはなかった。天宝12年(753)、日本国は再び使者を使わした。上元年間(760~762)に朝衡(阿倍仲麻呂)を左散騎常侍、鎮南都護に任命した。貞元20年(802)にも日本国は朝貢してきた。留学生の橘逸勢と学問僧の空海である。元和元年(804)に日本国使判官の高階真人が「前回の学生たちは学習も無事終えたので私と共に帰国させたい。」と願い出たのでそのとおりにさせた。開成4年(839)、日本国は再び使者を使わした。

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