次に筑紫の島を生みたまひき

筑紫の国

隠岐諸島に前哨基地をおいた天神族は、中国地方の勢力と向き合いますが、こう着状態。それだけ、中国地方の勢力が大きかったのでしょう。この地は隠岐諸島で睨みを利かせておいて、次は、九州を平定します。

次に筑紫の島を生みたまひき、この島も身一つにして面四つあり、面ごとに名あり。かれ筑紫の国を白日別(しらひわけ)といひ、豊の国を豊日別(とよひわけ)といひ。肥の国を建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)といひ、熊曾の国を建日別(たけひわけ)といふ。

  • 筑紫の国 白日別(しらひわけ)
  • 豊の国 豊日別(とよひわけ)
  • 肥の国 建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)
  • 熊曾の国 建日別(たけひわけ)

九州も4つの「面」に分かれていたようです。4つの「面」とも「別」がついていますので、平定後は天神族の有力者が入植して治めたものと思われます。「面」というのは地域を区分しているのでは無くて、港を基準としているのではないかと思います。海人族ですから。

筑紫の国は現在の福岡県の東部を除いたあたりになります。当時も通商で栄えた商業都市だったのでしょう。商人の都市だとしたら、損得を考えて、強大な力を持つ天神族に抵抗せず、受け入れたのではないかと思うのです。

筑紫の国(つくしのくに)は、ツクシと読みますが、チクシとは読まないのでしょうか?。筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)と普通いいますよね。また、九州全体を筑紫の島といいますので、筑紫の地に九州全土の統括的な行政機関が置かれたのでしょうか。

豊の国は現在の福岡県南部及び大分県周辺です。この地は、愛媛県とも相対しており、これまでも往来があったのでしょう。伊予の国の力も把握していたので、あまり抵抗なく、国譲りをしたのではないでしょうか。

景行天皇の命によってこの地域を治めていた菟名手(うなで)が仲津郡(なかつぐん: 現在の福岡県東部にかつて存在した郡)を訪れると、白鳥が飛んで来て、まず餅となり、次いで冬であったにもかかわらず幾千もの芋草となって茂ったので、菟名手がこの芋を天皇に献じたところ、景行天皇は「天の瑞物、土の豊草なり」と喜んで、この地を「豊国」と名付けた。豊後国風土記

肥の国と熊曾の国ですが、2つの国とも「建」の字がついていますので、かなりな抵抗があったのだと思われます。この2つの国は、武力で平定し、軍による統治がなされたのではないかと思います。肥の国は、長崎県、熊本県あたり、熊曾の国は熊本県南部、鹿児島県、宮崎県です。

建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくしひねわけ)

肥の国の神の名だけ異様に長いのは意味があるのでしょうか?豊久士比泥(とよくしひね)をどう分解するかですね。

  • 建日 たけひ
  • 向日 むかひ
  • 豊久士比泥 とよくしひね
  • 別 わけ

建日は天神族の軍。向日はアマテラスは日の神であるし、日向とか向日とかはアマテラスを祭っているという意味ではないかと思うのです。地名ではないでしょう。別は支店みたいなもの。

豊久士比泥はよくわかりません。泥の字があるので有明海を想像します。阿蘇の火山灰とかも関係があるような気がします。なんにしろよくわかりません。また、何かで引っ掛かりが出てきたら考えたいと思います。

邪馬台国はどこにあったか


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今読んでる(ほぼ読んだ)この本は邪馬台国を九州としています。

邪馬台国が九州にあったとされる説が有力のようです。確かに九州は何かがありそうな地ではあります。それに引き換え、四国は何も無いといっていいような地です。何かあるわけが無いと誰もが思う地。・・・あまりにも無さすぎるのもどうなんでしょう。

邪馬台国については、正直言ってあまり興味が無かったのです。今もそうあるとは言えません。古代史を学ぶとしたら、邪馬台国は避けては通れない道です。ですから、今の私の持てる知識の範囲内では、あるとしたら九州か、もしくは死の国として葬られた四国ではないかと思っています。

浅学の徒ゆえお許しを

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