天石門別八倉比賣神社略記を読む

天石門別八倉比賣神社略記を書き出してみました

当社は鎮座される杉尾山(すぎおやま)自体を御神体としてあがめ奉る。江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥之院の神陵を拝する。これは柳田国男の『山宮考』によるまでもなく、最も古い神社様式である。

天石門別八倉比賣神社は杉尾山自体が御神体であるとしています。江戸時代に神陵の一部を削りとありますが、御神体である杉尾山の一部を切り開いて、本殿拝殿を建立し奥の院の神陵を拝んでいるというわけです。これは最も古い神社様式だとしています。

奥之院は海抜116m、丘尾切断型(きゅうびせつだんがた)の柄鏡状(えかがみじょう)に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石甕石を組み合わせた『つるぎ石』が立ち、永遠の生命を象徴する。

奥の院は柄の部分が長い手鏡(鍵の穴)の形をした古墳で、五角形の祭壇というのは、卑弥呼の墓とされている、奥の院の祭壇のことでしょう。『つるぎ石』とは剣山山頂の巨石のことでしょうか?『つるぎ石』とは?長い石と小さい石が見えます。


ピントが甘くてすみません。

杉尾山麓の左右に、陪塚(ばいちょう)を従え、杉尾山より峯続きの気延山(きのべやま)(山頂海抜212m)一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。

気延山一帯には二百余の古墳があって、その中でも最大の古墳ということ。

当八倉比賣御本記(やくらひめのおおかみごほんき)の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔離神(いまりのかみ)、葬儀委員長大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)が記され、八百萬のカグラは、『嘘楽』と表記、葬儀であることを示している。

天照大神の葬儀の詳細な記録があるということです。

銅板葺以前の大屋根棟瓦は、一対の龍の浮彫が鮮やかに踊り、水の女神との習合(じゅうごう)を示していた。古代学者折口信夫は天照大神を三種にわけて論じ、『阿波における天照大神』は『水の女神に属する』として、『もっとも威力ある神霊』を示唆しているが、余りにも知れれていない。

『水の女神』が『もっとも威力ある神霊』ということなのでしょうか。阿波におけるということは、阿波以外の天照大神は『水の神』ではないということでしょうか。

当社より下付する神符(かみふだ)には『火付(ママ)せ八倉比賣神宮』(ひふせやくらひめじんぐう)と明記。

神符というのは「神社から下賜されるもののうち最も重要な神の璽(しるし)である。」だそうだから、神棚に祭るお札のことでしょうか。『火付(ママ)せ八倉比賣神宮』の『火付(ママ)せ』は『火伏せ』の間違いでしょうか。(ママ)がついてるし、ふり仮名は『ひふせ』になっています。防火のお札。つまり、『水の神」につながるわけですね。

鎮座の年代は詳らかではないが、安永二年三月(1773)の古文書の『気延山々頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ』の記録から逆算すれば、西暦338年となり、四世紀初の古墳発生期にあたる。しかも伝承した年代が安永二年より以前であると仮定すれば、鎮座年代は、さらに古くさかのぼると考えられる。

古墳の発生は3世紀半ばから7世紀頃までのようです。鎮座年代が4世紀初頭より以前だとすれば、日本最古の古墳群に連なるものと考えられるということです。

矢野神山 奉納古歌

妻隠る 矢野の神山 露霜に にほひそめたり 散巻(ちらまく)惜しも

柿本人麿(萬葉集収録)

柿本人麿が阿波の人であると言う主張があるようですね。コアな方の説は私にはまだ早いので頭の片隅に置いておきます。それしか考えられなくなりますから。奉納古歌とありますから、奉納された事実があるのでしょうか。

当社は正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣社等と史書に見えるが、本殿には、出雲宿祢千家(いづものすくねせんけ)某の謹書になる浮彫金箔張りの『八倉比賣神宮』の扁額が秘蔵され、さきの神符と合わせて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。

正一位というのは神社の神格の最高位。次が従一位です。出雲宿祢千家は某とあるので特定できる人物ではないですね。宿祢は宿禰のことだとしたら称号のひとつだそうです。主に物部氏や蘇我氏に与えられたとか。千家は出雲国造(いずものくにのみやつこ)の本家の名称。由緒正しき人の扁額(横に長い額)を所蔵しているということ。

古代阿波の地形を復元すると、鳴門市より大きく磯が和田、早渕の辺まで、輪に入りくんだ湾の奥に当社は位置する。

古代は海岸線がこのあたりまで来ていたという記述。湾の奥であった。

天照大神のイミナを撞賢木厳御魂天疎日向津比賣(つきさかきいつのみたまあまざかるひうらつひめ)と申し上げるのも決して偶然ではない。

撞賢木厳御魂天疎日向津比賣というのは『日本書紀』巻九「神功紀」に登場する神さまで、天照大神の荒御霊であるとされています。「も決して偶然ではない」が何にかかっているのか不明ですね。「あまさかるひに向かつ姫」は、瀬織津姫 のもう一つの別名とありました。天疎(あまさかる)は「夷」の枕詞。「夷」はエビス、古くはエミシのこと。瀬織津姫 はエミシの姫のようです。瀬織津姫 とアマテラスは同一神という記述もあります。瀬織津姫 についてはまたの機会に。

なお本殿より西北五丁余に五角の天乃真名井(あまのまない)がある。天文年間(1736-41)まで十二段の神饌田(しんはんでん)の泉であった。現在大泉神(おおいずみのかみ)として祀っている。

天乃真名井は大泉神として祭られています。今回は知らなかったので大泉神にはいけませんでした。次回は参拝したいと思います。

当祭神が、日本中の大典であったことは阿波国徴古雑抄(あわこくちょうこざっしょう)の古文書が証する。延久二年(1070)六月廿八日の太政官符で、八倉比賣神の『祈年月次祭は邦国之大典也』(きねんつきなめさいはほうこくのたいてんなり)として奉幣(ほうへい)を怠った阿波国司をきびしく叱っているのを見ても、神威の並々でないことが感得され、日本一社矢野神山の実感が迫ってくるのである」

太政官符(だいじょうかんぷ=だじょうかんぷ)は、日本の律令制のもとで太政官が管轄下の諸官庁・諸国衙へ発令した正式な公文書。八倉比賣神を奉ることを怠ったとして、国の最高機関が阿波国司と厳しく叱ったという文書があり、それだけ八倉比賣の神威があるとしています。

あとがき

次々と新しい事柄が出てきて、初学者の私なんかには大変なことになっています。深く学ばれている方には常識な事柄かもしれませんが、まあ、ゆっくりと学びたいなと思っています。

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